私が遅刻しないで教室に現れたのにエシュカは随分驚いていた。
それはまるで私がいつも遅れているようじゃないか。むっとして口を尖らせたら「私より早く来た事ある?」と言われてしまった。うん、ないな。嫌味な教授の授業はやっぱり理屈ばかりで退屈だった。ジョヴァンニ・ボッカッチョの代表作『デカメロン』の話が延々と続く。余談だが『デカメロン』は中学校の授業で始めてその名を聞いたものの私は滅茶苦茶デカいメロンのことだと思って先輩に「デカメロンってどんくらいデカいんでしょうね。」と聞いたところ、その先輩にデカメロンの本を投げつけられた事がある。苦い思い出だ。



授業が終わったのは夕方だった。帰りにカフェに寄ろうと誘われたけど、骸さんが気にかかって断った。彼はほっとくと何かしそうで恐ろしい。仲間を呼び寄せるならまだいい。いやよくないけど、問題は人外だ。出会った当初に六道輪廻とか言っちゃう人だからこの世のものとは思えないものとかホイホイ出しそうなイメージがある。朝の様子だと普通だったが、夜が平気とは限らない。適当に理由つけて帰りのバスに乗る。夕暮れのバスは空いていた。丁度ラッシュ前だからと思う。このバスはとにかく時間に左右されやすい。一人掛けの椅子に座って何気なしに外を眺めた。本当はもっとお喋りしたかった。ジーナが町で王子を見かけたって話、とても聞きたかった。王子と言うのは1年前にうちの大学の編入してきた金髪の青年だ。王子の由来は頭にティアラを乗っけて、事あるごとに「だって俺王子だし」ということから。私は学部が違うから見たことも会ったこともない。噂ではかなりのイケメンらしい。ものすごく興味があるわけじゃないけど、聞くところに寄ればボーダーが好きなんだとか。王子のクセにかぼちゃパンツじゃなくてボーダー好きとかかなりおいしい。一度くらいその姿を拝んでみたいものだ。



家には6時ごろ着いた。
2月だとまだまだ日は短い。上を見上げれば月が昇っていた。


「ただいまー。」


ドアを開けてブーツを脱ぐ。履くとき同様かなり手こずってカバンを廊下に置き、靴箱に上に手を乗せて奮闘していると、パタパタとスリッパの音が聞こえた。骸さんだろう。しかし朝よりも足音が軽いと言うか繊細と言うか、とにかく違う。あれ?と思い顔を上げて私は固まってしまった。


「・・・あの、おかえりなさい。」


六道骸の身長が縮んでいる。
六道骸の体が華奢になっている。六道骸に胸が付いている。
朝まで男だった六道骸が女になっていた。


予想外だ。


*******


固まった私に目の前の女の子は頬を赤くしてもじもじとしている。
恥ずかしがり屋なんだろう。よく見れば髪形や髪の色は似ているけど、顔のパーツは全く別人だった。と言うことは彼女いったい何者なんだろうか。疑問が残る。女の子は私と同じくらいの年で髑髏のマークのついた黒い眼帯をしていた。逆の目がキョトキョトと泳いでいる。胸にはドストエフスキーの『罪と罰』を抱いていた。父の本だ。1年位前に探して出てこなかった本。そのときちょうど課題で必要になったのに、結局図書館で借りた。うちは本はご近所一周ドミノ倒し出来るくらい本があるのに整理しないから何処に何があるのかわからない。タイトルの書かれた紙でも貼っとけば良いんだろうけど、クロロは外に出るたびに最低10冊は本を買って来る。あれは整理をしないくせに買うことばっかやってくるのだ。おかげでキッチンの食器棚にまで本が進出していて嫌になる。古本屋に本を売る回数が多すぎて店員さんとは顔なじみだ。私がじっと本を見ていたせいかもしれない。女の子は「ご、ごめんなさい!」と行き成り謝ってきた。


「・・・本、勝手に読んじゃって。あの、私、・・・・・・」
「あ、いいよいいよ。どんどん読んじゃって。むしろ気持ち悪いくらい本あってごめん。」


以前スプーン入れの引き出しに本が入っているのをジーナに言ったら「きもっ」と言われた事がある。
考えてみたら確かにきもい。ついでにその日とうとう鍋置き場にも本が侵略してきたのでショックは2倍だった。古本屋に通い始めたのはその日がきっかけだった気がする。女の子はビックリした顔で「あ、ありがとう」と小さくお礼を言ってちょっと笑った。笑うと可愛い。


ブーツを脱いで廊下に上がる。
その際女の子がスリッパを出してくれた。何この子。メイドさん?私専用メイドさん?日々父親の本収集の尻拭いと住み着くとか言い出したナッポーに健気にも立ち向かう私への神様からの贈り物ですか。女の子は「ごめんなさい。ご飯まだ出来てないの。」とすまなそうに言っていた。いや全然大丈夫ですよ。あと2時間は平気です。内心の言葉をストレートに現すと引かれそうな気がしたので「なら一緒に作ろう」に留めておいた。こんな優しい子に嫌われたくない。私の生活環境に足りないのは優しさだ。相手を思いやる真心だ。女の子はぱっと頬を染めて小さく頷く。嬉しそうに見えたのは私のキラキラフィルターがかかっていたせいかもしれない。


******


女の子は凪と名乗った。私が名乗ると「って呼んでいい?」って聞かれたので快くOKしておいた。本当に可愛らしい。聞けば凪は日本人で5、6年前にイタリアに来たらしい。用事のある骸さんに代わって凪が宅配便を受け取ってくれたのだとか。


「骸様は私の命の恩人なの。」


それが比喩なのか文字通りの意味なのか私にはわからない。
ただ、凪が骸さんをとても慕っているのはわかった。


は大切な人、いる?」


大きな目が私を見る。
蛍光灯の灯で凪の目は黒に近い紫色に輝いて綺麗だ。


「大切な人・・・んー、クロロかな。一応父親だし。」


母親と父親がいなければ子供と言う存在は生まれないのだ。そう考えると人間ってのもすごい生き物だなと思う。あんな小さな腹から産まれてこんなにでかくなるのだ。といってもクロロは私の実父ではない。亡き母の再婚相手だ。本当の父親は知らない。私が物心つく前からいなかった。別に知りたくないわけじゃないけど、知ったからと言って何が変わるわけでも、変えたいわけでもない。私の答えに凪は肩を小さく震わせる。そして「・・・そう、」と聞こえるか聞こえないかと言うほど小さな声で呟いた。“父親”と言う単語に怯えている。それだけはわかった。ただわかった所で深く聞くことも流す事もできなくて、私は黙り込んでしまった。すると凪も口を閉じてしまい、気まずい雰囲気が辺りに漂う。
しかしパスタの鍋から「こんな重い空気耐えられねぇよ!」と熱湯が吹き零れるアクシデントでそんな気まずさは吹っ飛んでしまったのは幸運だった。うちの根性ない水道水、グッジョブ!








手 短 に 言 い う と
(凪は何者で此処に何しにきたのだろう。)



そんな疑問が浮かんだのは、2人でご飯食べて本の話で盛り上がり、調子に乗ってクロロから届いた最高級赤ワインを飲み干してからだ。いや、正確に言えばワインを飲み干してから酔っ払って2人でお風呂に入り、近所迷惑になるようなでかい声で歌を歌って、ベッドにもぐりこんでからだ。隣では凪がぐっすり眠っている。・・・・・さて赤ワインの件、クロロになんて言い訳しよう。『キリストの血、おいしゅうございました』なんて送ったらきっと殺される。首と胴体がさよならしてしまう。今ほど一休さんの頓知が欲しいと思ったことはない。




n e x t