彼が“それ”と指した本を見る。 自分の手元にある、古ぼけた本。あまりにも読みすぎるからボロボロになりつつあるその本は、黒曜中のものではない。まるっきり私物だ。最初は司書のおばさんにあらあらと言う顔をされたけど、図書当番なんて私くらいしかしないから今では私がそのシリーズの本を読んでいても何も言わない。時々一緒に読むくらいだ。もう1度彼の顔を見る。とてもお綺麗だ。あんまり見た為か少し眉が寄っていた。「えぇっと、六道先輩?」確かそんな苗字だった。先日転校してきたうちの1人で私より1つ年上。クラスは知らないけれど、そのお綺麗な顔と不良たちを笑顔でボコった事で一躍有名になった人である。 「あの、先輩。まことに申し上げにくいんですが、」 私は自分が知る限りの敬語を使ってみた。 相手は不良だ。いや、不良たちを笑顔でボコった人だ。絶対まともじゃない。礼儀がなってないとか難癖付けられてネック・ハンギング・ツリーを仕掛けられるかもしれない。彼は「なんですか。」と実に普通の事を言ったけど、顔は相変わらず不機嫌そうだった。誰だ、六道先輩は笑顔が素敵とか言った奴は。半端なく不機嫌だ。笑顔の“え”の字も見つからない。 「この、本でお間違いはない・・・でよろしいでしょうか。」 「・・・・・・さっきからそう言ってるつもりですが。」 「いやでも、」 先輩は「なんなんだコイツは」という顔を隠しもしないで私を見た。 その瞬間、私はもう耐えられなかった。目の前の先輩がたとえ不良をボッコボコにしたとしても、女教師と放課後口では言えないハレンチな事をしていたと言う噂が飛び交っていたとしても、私は口を閉ざしている事はできなかった。むしろはっきりと言ってしまうのが義務にすら思えたのだ。だからだ。思わず言ってしまった。 「これ“ウォーリーを探せ”ですよ?」 「・・・・・・・・。」 彼は小さな声で「僕が誰を探そうと君には関係ない。」といかにも格好良い台詞を吐いたが、誰と言うかウォーリーだしね。私の中で先輩のイメージがちょっと変わったのは言うまでもない。それにしても、まさか大層な肩書きをいくつも持つこの先輩が、赤と白の縞々メガネ野郎を探すのが趣味であったのを知る事になるとは思わなかった。 私たちの出会いはつまり、こんなくだらない事だったのだ。 ***** 六道先輩は彼自らがそう発したようにウォーリーを探すのが神的に巧かった。 私が適当に開いたページからウォーリーを探すのに5秒もいらなかったはずだ。だからといって何か役に立つ事に繋がりはしないんだろうけれど、私は彼以上に早くウォーリーを探せる人を未だかつて見たことがなかったので、すげぇ!などの賛美をいくつもかけたら、「あなたってボキャブラリーが少ないですね。」と冷静に突っ込まれ、でも悪い気はしなかったのかその後も何だかんだでウォーリー探しの技を合計7回見せてもらった。もうこれは悪い気はしなかったというより、めちゃくちゃ得意げになっていたとしか考えられない。案外彼は単純であった。 「そんなにウォーリー好きなら買えばいいじゃないですか。」 あまりにも彼が図書室にちょくちょく来ては私のウォーリーシリーズでウォーリーを探すので、ある日そんな事を言ったら「僕のイメージが壊れるでしょう」と呆れ顔で言われた。その顔が少々イラっときたので「先輩のイメージもうウォーリーですよ。いや先輩=ウォーリーみたいです」と言ってやったらすかさず「僕があんなセンスない服着るわけないじゃないですか」と突っ込んでくる。ウォーリーに謝れ。 「というか、ここでウォーリーやってる時点で充分イメージ崩れてると思います。」 「・・・君は本当に煩い。その口にウォーリーのメガネ突っ込みますよ。」 「チョイスがマニアック過ぎるよ!!」 先輩は私といるときは呆れた顔をよくした。 突っ込みも容赦なかった。廊下でたまに見かける先輩は気持ち悪いぐらいの笑顔を浮かべているのに図書室で合う先輩はまったく別人のように素っ気無い。ある時「今日廊下で先輩見かけましたけど、喪黒福造みたいな顔でしたよ。」と言ったら、そのとき先輩が読んでいた『笑ゥせぇるすまん 』を投げつけられ、凄みのある笑顔で「お口のスキマ、お埋めいたしましょうか」とか言われた。(お口のスキマって・・・埋めたら窒息じゃん。そういえばこの間は『デカメロン』の本を投げつけられた気がする。投げるのが好きらしい)先輩はことある事に「君は煩い」「君はバカだ」「君は本当に、」と“君は”シリーズを口にしたが、だからといって図書室に来なくなる事はなかったし、毎週月曜日になると私を引き摺ってクレープ屋を訪れた。寒い日にはコンビニで肉まんを買って、雪の降る放課後は映画を見に行った。勉強を教えてもらった事もある。英語が最悪な私を先輩は散々馬鹿にしたけど、その次の日には手作りの英語対策問題を作ってきた。先輩はなんだかんだ言って私と関わるどうでもいい事以外にも色んな事に打ち込んだ。テストで1位を取ったり、黒曜中1番の美人斉藤先輩と付き合ったり、気まぐれに不良をボコったり。けれど最後には「くだらない」とやけに醒めた目で締めくくる。そのときの先輩は、ゾッとするほど無表情だった。自由奔放な人なのか真面目な人なのか。笑顔が本当なのかニヒルな顔が本当なのか。熱いのか冷めてるのか。さっぱりわからない。でも私はそんな先輩が嫌いじゃなかった。 「こんな世界なんて滅んでしまえばいいのに」と言い出しそうなほど先輩は何事にも冷めていたけれど、クレープ屋のクレープを制覇するまで通い続けるとか、ペプシとコカ・コーラを飲み比べるとか、先輩はとにかく色んな事をした。それが暇つぶしの一種だったとしても、リング以外何も持たない私にとって先輩はちょっとした憧れだったのかもしれない。何にもないから何でもあるように見えた先輩が眩しく見えたのかもしれない。 ***** 「君はどうでもいい事ばかり一生懸命になりますね。」 学校の帰り道、黒猫を見つけて追跡する私を先輩は半眼で眺めた。 普段は自分のほうがどうでもいい事をしているくせにまるっきり忘れている。私を見下ろすその姿は、渋々後輩に付き合ってやっている面倒見の良い先輩風情だ。 「先輩の方がよくわからない事してるじゃないですか。」 「失礼な。僕は理論的に考えた上でですね、」 「斉藤先輩と別れたって本当ですか?」 「・・・・・・。」 先輩の動きがぴたりと止まる。 だから私も足を止めた。黒猫は私たちを一瞥して去っていった。3月の風は冷たくてダッフルコートを着ていても寒い。マフラーに顔を埋める。「別れてなんていませんよ。」先輩はそう言ってから「最初から付き合っていませんし」と続けた。確かに先輩から斉藤先輩について聞いた事は一切なかった。情報は全部噂。それから斉藤先輩本人からだ。何処をどう間違ってか私と先輩は付き合っていると学校中に思われているらしく、斉藤先輩に呼び出され「悪く思わないでよね。あなたが彼を満足させられなかったんだから。」と嫌味染みたことを言われたのは1週間前。それから今まで私は“彼氏を寝取られた彼女”という実に不名誉な称号を与えられた。別に先輩とは付き合っていないし、この1週間放課後は別々だったもののメールとか電話とかそういう文明の利器を使って連絡はとっていたし、まぁ今まで通りの生活だったわけだ。だから特に悩んだりするわけではなかった。むしろクラスメイトや先生に優しくされたので儲けもんであった気がする。 「あの人に何か言われたんですか?自分が僕の彼女だって。」 「まぁ、軽く。」 「・・・・くだらない。たかが2、3回体開いたからって彼女面するなんて、呆れてものも言えませんよ。」 なんかさり気なくディープな内容だった気がするが、コメントし辛いので私は流す事にした。 先輩も「とにかくあの女とは付き合っていません。わかりましたか?」と言って私が曖昧に頷けば納得したのか、「君の所為で猫逃げたじゃないですか。どうしてくれるんです。」といつもの調子で睨みつけてきた。そもそも猫を追っていたのは私で、足を止めたのは先輩だ。これは私じゃなく先輩の所為である。それに気づいた時には話題は全く違うものに変わっていて、私の手には先輩の奢りで買ってもらったピザまんがあったので何となく追及するのは気が引けた。 その後も先輩はことある事に「くだらない」を連発した。その多くは言い寄ってくる女子生徒に対してであったり、お涙頂戴のドラマを見た感想であったり、「人に優しくしましょう、人を愛しましょう」と呼びかける宗教団体だったりした。先輩がどうしてそう思うのか私は知らない。でも先輩がただ粋がって言ってるわけじゃないのはわかる。先輩は色んな事がくだらないんだろう。人間も世界も愛情も。私は色んなものが欲しくて仕方がない。私が“私のまま”で触れても壊れない人間と受け入れてくれる世界と、それから小指のリングを懸けても惜しくないほどの愛情をいだける人。拒絶する人と強欲な人。まったく正反対な先輩と私はきっとちょっとだけ似ていて、 多分ふたりぼっちなんだ。 |
記 憶 の 中 で 瞬 く
(私たちの世界はとても小さくて、でもその狭い箱庭はとても心地良い。)
(あぁ、いつまでも続けばいいのに)
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