「すみません。その本借りたいんですが、」 抑揚のない声に顔を上げれば、の前には見たこともない綺麗な人が立っていた。 青味がかった黒髪と涼しげな鼻梁。何と言ったって赤と青のオッドアイは珍しい。彼は無表情に近い顔でもう1度、白く細い指で「その本です」とが読んでいる本を指す。 それが始まりだった。 骸さんが驚いた顔で私を見ている。 こんなに驚いた顔をするのは私が苦手な英語で80点を取った時以来だろう。あの時彼は愕然とした顔で本を取り落とし「カンニングしたんですか」と失礼極まりない台詞を吐いて私にボディーブローされたはずだ。懐かしい思い出に顔が緩む。あの時は腹が立ったけど今思えばそう悪くない思い出だった。骸さんはじっと私を凝視していた。その顔にはわけがわからないと書いてある。当然か。骸さんの中に中学生の私はいない。どんなに思い出そうとしたって無理な話なのだ。 「だって私がクロロに頼んだんです。に関する記憶の全てを消して欲しいって。・・・あなたがそう望んだから。」 ***** いつからあったかなんか知らない。 気が付いたら怖い力があった。触ったものを不規則に消す力。 コップも建物も人も、まるで何も無かったかのように存在が消えて、後には何も残らない。“消える”のではなく“異空間に移動される”力であると知ったのは数年後の話だ。私が異世界からクロロを連れてきてしまった時、彼がそう言っていた。それまでは何が何だかわからなくて、私は人と話した事も、触れ合った事もない、言うならば透明人間だった。話し相手は唯一触れる事ができた百合子さんだけ。それでも私は幸せだった。もし百合子さんがいなければ私はとっくの昔に死んでいただろう。文字通りの孤独死だ。百合子さんだけは『』を知っていて、その目に映し、抱きしめて愛を囁いてくれたから、今の私がある。 「それでもやっぱり1人ぼっちはなのに違いはなくて、外の世界には憧れてましたね。私の世界は狭いアパートだけだったから。でも、その所為で人を消してしまう事もありました。」 そんな時に現れたのがクロロだった。 灰色の毛皮付きの黒いコートを着た彼は、まだ若かったのにとても冷静で、何が起こったのか、誰の所為なのか、どんな力なのか、その全てを短い時間で組み立て答えを導き出していた。そして言ったのだ。お前の力はコントロール出来る、と。 「ねぇ骸さん。もし喉から手が出るほど欲しいものがあったとして、誰かを犠牲にすれば得られるとしたらどうしますか?」 「・・・そんなの決まってるじゃないですか。得られるのなら僕は何だってする。それの何が悪い。人間なんて皆、利己的なんです。口では尤もな事を言って本当は自分がよければそれでいい。それにそんなのは誰にも裁けない。」 吐き捨てるように骸さんは強い声で言った。 私もそう思う。そしてその結果が、あの指輪だ。私の左の小指に嵌められていたあの、呪いの指輪。私の力はクロロの世界では“念”と呼ばれる一種のプラスの力らしい。その力が大きすぎるから暴走し、手当たり次第、異空間に移動させてしまうのだとクロロは言っていた。だから逆にマイナスの力でプラスのを抑え込む。その役割があの指輪だった。以前体調が悪い時嵌めていた指輪もそうだ。いつもつけている指輪は一定量のプラスしか抑えられない。だから体が安定しない時期は暴走しない為の予防策としてマイナスを大量に増やす。暴走する量がわかればそれに見合ったマイナス量で抑えるけど、私の体にはメーターなんてものは無いわけで、風邪を引いた日や生理の時は体の負担は大きく、特に生理痛はお腹を抉られるよりも痛い。 「結局あなたは優しいんですね。」骸さんが息を吐くようにつぶやく。否定すると彼は私を見て首を振った。 「いいえ、優しいです。だってマイナスを増やす必要なんてないじゃないですか。一定量を越えるようなら開放すればいい。」 やっぱり骸さんは頭がいい。力の開放、それはクロロにも言われた事だ。 抑えるから苦しむ。なら開放すればいい。一定量を越えたプラスは外に発散すれば体に負担はかからないし、生活に支障をきたす事もない。 「開放とは誰かを犠牲にする事。でもこの世には生きる価値のない人間なんて沢山いるんですよ。なのにそれをしないのは、やっぱりが優しいからです。」 「ちがいます。・・・・・・違うんです。」 根本から間違っているのだ。私はそんなに出来た人じゃない。 唇が震える。これから話す秘密は出来ることなら誰にも言いたくなかった。やめたい。でも言わないといけない。それが今まで逃げてきた私への罰なのだ。罰、その言葉に笑いがこみ上げてくる。骸さんを見ると彼は顔を顰めていた。腹が立った時の顔に似ている。けどそうじゃないのはわかっていた。骸さんは辛いんだ。私が笑うから。無理に笑うなって青と赤の目が言っている。でも違うんだよ骸さん。無理じゃない。私は自分が愚かだと思うから笑うんだよ。最低だから嗤うんだ。良い人なんかじゃない。優しくなんかないんだよ。触れないのに触りたがるから、交じれないのに交じりたがるから、だから消えなくていい人が消えたんだ。初めて人を消した日を今も覚えている。まだ3歳だった。ツインテールの女の子。あの子は何も悪い事なんかしてなかった。私が自分の事しか考えないで行動したから。だから「遊ぼう」と手を差し伸べてくれた女の子は消えてしまったんだよ。あの子は何も悪い事してないのに。ただ手を差し伸べただけなのに、彼女は私に殺されたんだ。 「ねぇ骸さん。消えるってどう意味かわかりますか。ただ消えるんじゃないんです。存在そのものがこの世界から抹消される、そういう意味なんです。後には何も残らない。」 だから私は辛くなんかない。だって本当に辛いのはその女の子の方だ。 殺されたのに誰も気付かない。被害者なのにその子のお父さんもお母さんもみんな、その子の事を覚えていない。その子は確かに殺されたのだ。痛かったかもしれない。怖かったかもしれない。でも誰も殺した犯人を責めない。覚えてないから。それだけで誰も仇を討たなくて、私はのうのうと息をしている。そんな私が辛いなんて言う資格はない。消えるべきは私だった。死ぬべきは私だった。だけど私は生きている。誰かの為じゃない。自分のために生きている。私はただ死ぬのが怖かった。私という存在が無くなるのが怖くて仕方がなくて、この世界にいつまでもいたくて、沢山の人たちを犠牲にしてきた。指輪だってそうだ。あの指輪を守るために4人の警備員が殺された。本来なら殺さなかった人たち。私が指輪を欲しがったから。全部、全部私のエゴだった。 「選ばれた者は凡人社会の法を無視する権利がある。」 いつか雲雀さんが言っていた。ドストエフスキーの『罪と罰』。 選ばれた人間は、どんな事をしても誰も咎めない。もしそうなら―――― 「そうなら私はきっとニセモノなんです。選ばれた人間でもないのにそういう振りをして、何も出来ないくせに沢山の人を踏み台にして生きてるんです。この世には生きる価値のない人間なんて沢山いるって骸さん言ってましたよね。・・・たぶんそれは私なんです。いっぱい犠牲を払っても、それでも生きたい。価値もないのに生きている。裁かれなければいけないのは私なんです。」 クロロにとって殺しは当たり前の日常であって、いうならば朝コーヒーを飲むのと同じだと言っていた。私のためにやったわけじゃない。自惚れるな、と。でもそれはやっぱり私の所為なのだ。直接だろうと間接だろうと、私が指輪を欲しがらなければ警備員は死ななかった。クロロは人を簡単に殺す。それを悪いとも思っていない。もしかしたらあのときの事なんかもう覚えていないかもしれない。でもそれじゃ嫌なのだ。誰も私を責めない。私の所為なのに直接手を下したクロロが謎の殺人犯として新聞に載って、本当の殺人犯を誰も裁かない。それが耐え難かった。 「もっと最低なのは、そうやって罪を自覚してる反面普通の生活を楽しんでる事です。」 指輪を嵌めて全てが変わった。人に触れる。名前を呼んでもらえる。灰色だった世界が色付いて見えた。それはとても美しい世界で。まるでこの世界にいても良い、そう言われている気がした。幸せを感じちゃいけないのに、幸せだった。平和に暮らす資格なんてないのに、毎日楽しかった。負い目は常に感じていたけど、この幸せを手放す事なんて死んでも出来なかった。汚く醜い。それが私。 「力を解放しないのは、ただ自分が救われたいからです。誰も裁かないから、せめても苦しめば負い目を感じなくていい。そんな卑しい気持ちなんですよ。私は優しくない。きっと誰よりも醜い。」 この先私は自分以上に大切だと思う人なんて現れないと思っていた。 自分勝手な私は、誰かのために一生懸命になる事も、その人の為に身を費やす事も出来ないと思っていた。 「そんな時、あなたに出会った。」 私は今も覚えている。 図書室の匂いも。あのときの無表情な顔も。 思えばアレは恋だった。 |
飲 み 込 ん だ 毒 が 毒 と は 限 ら な い
(いっその事、呪いで死ねたらよかったのかもしれない)
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