隣でが子供のように眠る。
目元は泣いた所為で赤くなり、頬には涙の跡が付いていた。その跡を指で辿ってみれば、半開きの唇に行き着いた。がさがさの唇。は肌に何かつけるのが嫌いで(だからいつまで経っても化粧が上手くならないのだ)、リップクリームも言わないと付けない。冬から春にかけてのこの季節は乾燥が激しいのに一切気にしない彼女は、本当に女性なのかと疑ってしまう。


上半身を起こして机の上にリップクリームがないか見てみたが、残念な事にそれらしいものはなかった。
きっとポーチの中に入っているのだろう。幸いポーチは机の上にあったから体を伸ばせばどうにか届く。(が眠った後凪の姿から本来の姿に戻した。戻した理由は特にない)しかし僕が上半身を起こした所為で冷たい空気が毛布の中に入るのか、は小さく唸りながら人肌の僕の方へ無意識に擦り寄る。仕方がない。リップクリームは諦めよう。その代わりキスしてみた。がさがさするかと思ったが、柔らかさに意識が行って気にならないかった。形を確かめるように唇を押し付けてみる。は起きない。触れるだけのキスをしてから水気のない唇を舐めてみる。濡れた唇というのはどんな人間であったとしても淫靡で欲情するものだと思っていたが、の場合は違うらしい。色気なんて一切出なかった。残念に思いながらもらしいと笑えてしまう。




「忘れたくなんかない。全部全部大切なんだもの。」


意識が飛ぶ前、はそう言っていた。
僕の目をあの黒い目でしっかりと見て、はっきりとした声でそう言い切った。自分のマインドコントロールが失敗するなんて思いもしなかった。それだけの心は強いという事だ。自分勝手な母親も無関心な父親も許せるくらい。その記憶すら愛おしく思えるくらい。



****


『あの子の傍で何が出来るの?』


あの男の声が蘇る。憎らしい声。
たかが3、4時間一緒にいただけでわかったような口を利くな、と罵ってやればよかった。しかしそれをしなかったのは彼が正論だったからだ。男のクセに女のように先を読む男。ルッスーリアはそんな人間だった。1度だけ無断での携帯に出た事がある。と喧嘩した日だった。鳴り止まない携帯に腹が立って乱暴に通話ボタンを押せばルッスーリアの声が聞こえた。(関係ない話だが、は一般人のクセに闇組織の人間に遭う確率が高い。この間なんかパン屋でスクアーロと見られる人間を見かけたそうだ。夕食を食べながら「そういえば今日パン屋さんに行ったら銀髪でロン毛の男の人がメロンパン100個予約していたんですよ。どんだけ好きなんですかねー。しかも『う゛ぉお゛い』って言ってました。世の中にはいろんな人がいるんですねぇ」とのほほんと言った時、僕は思わずお茶を噴きそうになった。)簡単に事情を話すとルッスーリアは『に危害がないならいいわ』と安堵のため息をつく。まるで母親のようだ。もし彼が本当に“女”だったら愛情に溢れた母親になっていただろう。


だからこその言葉だったのかもしれない。
『・・・アンタはいつまであの子の傍にいるつもり?』と言ったのは。遠慮がちで、気の障る事を言っていると自覚している声だったから僕はうっかり言葉に詰まってしまった。いつまで。その言葉に体が冷える。現実を突きつけられた気がした。マフィアである以上僕に“ずっと”などない。いつか別れが来る。


『余計な事かもしれないけれど、もう終わりにするべきよ。別れなさい。』
「指図するな。・・・僕は僕のやりたいようにする。」
『あの子の為だけじゃない。アンタの為にも言ってんの。あの子は、――は本当に良い子よね。気取ってないし、アタシみたいなのにも他と同じような気安さで声をかけてくれたわ。彼女ならどんな事でも、それこそアンタみたいな性悪のマフィア者も受け入れてくれるかもしれない。でも一般人よ。普通の子なの。世界が引っくり返ったってそれは変わらないわ。』
「・・・・・・・・・・。」
『ねぇ、アンタはあの子を100%守りきれる?いつ狙われるかもわからない世界よ。殺されるよりも辛い辱めを受けないとも限らない。アンタ、どうやってあの子を守るの?檻に入れて飼い殺す気?それともアタシたちと同じ所まで堕とすの?ねぇ六道、―――アンタじゃあの子を幸せにすることは出来ない。』






『アンタに出来ることなんて何もないわ。』


*****


黒い髪を梳く。その度にぎしぎしと胸が痛んだ。
確かになら本当の僕を受け入れてくれるかもしれない。なんて事ない態度で「あーそうだったんですか」とサラダを食べるかもしれない。それから「うちの父だって人を殺したりしますよ」と付け加え、「もしそうだとしても骸さんは骸さんのままなのでしょう?」とのんびりと言うのだろう。でもその先は?物語なら『いつまでも幸せに暮らしました』で終われるが、人生はそうじゃない。先がある。恨まれ、危険にさらされ、果てには絶望が待っている。そんな世界の中でが生きていけるなんてどんなに前向きに考えたって思えなかった。


・・・・」


耳元で囁けば僅かに眉を寄せ、身じろいだ。どんな夢を見ているのだろう。
あどけない顔にはさっきまでの悲痛の色はないから、少なくとも辛い夢ではないはずだ。ほっと息を吐いて、そんな自分に衝撃を受ける。が悲しい夢を見ていない、そんなくだらない事に僕は安心した。何に対しても興味がなかった僕が、夢ごときで安堵している。ぱたた、と毛布に雫が落ちた。自分の頬を触る。冷たい。以前が腹立たしげに質問した時、僕は「そんな日は絶対に来ない」と言ったのに。嗚呼、そうか。僕は、




「僕は、・・・あなたが好きなんですね。」


地味な顔立ちで平凡そのものな容姿も。お笑いが好きでジブリも好きで映画で簡単に泣くその性格も。涙が出るほど愛おしい。愛だの恋だの本当にくだらないが、だけは別だ。頬を撫で、もう1度触れるだけのキスをする。塩辛い味。そんな不快な涙の味ですら覚えていたい。幸せと言うのがどんなものなのか僕にはよくわからないが、この2ヵ月半、僕は確かに幸せだった。


・・・もう解放しなければ。
骸さんと呼ぶの声。笑う顔。
満たされた日常。ゆっくりと流れる時間。それで充分だ。その思い出がある限り僕は生きていける。





「愛しています。だから―――――幸せになってください。」


彼女が幸せになれるのなら、そのためなら何を失ってもかまわない。たとえ失望されたとしても、を裏切る事になろうとも。が幸せになれるのなら僕はどんな事でもしてやりたかった。




Teardrop
(僕の持つ全ての幸いをかけて、愛しき君に捧ぐ。)


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