私の陽気な1日の始まりはあの言葉で壊れてしまったと言って過言ではない。 数時間経つというのにまだ腹立たしかった。洗濯物をゴウンゴウン回しながら隣の壁にかけた鏡を覗くと、イライラした私の顔が映っている。あの後、イライラしたまま顔を洗い、髪をとかした。Tシャツにジャージの寝巻きスタイルから黒デニムの7分丈とTシャツに変え、殴るように洗濯物を引っつかんでは洗濯籠に投げつけた。ハルは触らぬ神に祟りなしの態度で作業室に逃げていった。本当に賢い。 別に自分が可愛いとか美人だとか思ったことはない。 ワイミーズには才色兼備が備わった人が数多くいた。その人たちに比べると私なんて笑っちゃうほど平凡だった。メロもマットもよくソレをネタにしたけど、初対面で平凡発言(?)をされた事は初めてだ。失礼にも程がある。 洗い終わった洗濯物を篭に入れて再び憎きバルコニーに持っていく。 引き戸を少しだけ開けて隣を見るとあの憎きブラックはいなかった。良かった。今会ったら首を絞めてしまうかもしれない。あのニヤリと笑った顔を思い出すだけで右手が拳を作るのだから。ムカムカする腹をどうにか宥めて洗濯物を干す。天気は先ほどよりも良い。夏の空に白いシーツが風にはためいて映画のワンシーンみたいだ。全て干し終わってからバルコニーに置いている椅子に座る。仕事の依頼がない期間は家に引き篭もるマットのための日光浴用の椅子。彼はそこに座って1日中ゲームをするのだ。 風が気持ちい。 目を閉じて息を深く吐くとイライラしていた気持ちもようやく落ち着きを見せた。ハルもソレを察したのか作業室から出てきた私の膝で丸くなる。もうすぐお昼時だ。朝にあんな事があったから、まだ何も食べていない。冷蔵庫の中はもう底が付いたから買い物がてらランチを食べに行こうか。そんな事を考えていると行き成り玄関のドアがドンドンと叩かれた。 「いるんだろ?ちょっと出て来いよ!」 うわ、昼下がりもぶち壊しだよ。 ハルを地面に下ろしてそろそろと椅子を降りる。音をたてずにバルコニーから部屋を覗くと玄関のドアがまた叩かれた。嫌な予感だ。居留守を使おう。しばらく息を殺して玄関を睨みつけているとドンドンと叩かれたドアがガンガンに変わり、それから急に音がぴたりと止んだ。なぜだろう。首をかしげてしばらく玄関を見ていると行き成り隣の家の引き戸が引かれ、バルコニーにブラックが現れた。 「おっ前、居留守使うなよ!!」 う ぜ ぇ 。 イライラした顔で私を睨みつける顔すらお綺麗でうんざりする。 「・・・・なんですか」 「話は後だ!ちょっと来い!!」 そう言うと彼はバルコニーの柵に手をかけ、助走でバルコニーを飛び越えてきた。 50センチもないといっても此処は3階だし、落ちたら軽い怪我ではすまない。最悪死ぬ事だってある。それを何とも思わない様子で彼は私の家のバルコニーに綺麗に着地した。顔が完璧な人は運動神経すら優れているらしい。呆然と彼を見上げる私をどう思ったのか、ブラックは首を傾げてから用件を思い出した様子で急に私の腕を取ると、問答無用で引き上げて、ウチのリビングを通り、玄関を開け、廊下に出ると1メート先にある自分の玄関を乱暴に開けてそのまま私を自分の家に連れ込んだ。その時間僅か数秒。半ば誘拐だ。何が何だかわからない私の足元にハルが慌てた様子でついて来る。恐るべき主人愛。これから私はハルに足を向けて寝れない。いや、彼は私の枕元で寝ているから、これからも何もハルに足を向けて寝たことは1度も無いのだが、まぁ、そんな気持ちってことで。 ブラックの長い足が歩みをとめたのは玄関入って右にあるバスルームだった。 白を基準に置いてある作りはウチを同じ。しかしそこで目にしたものはあまりに壮絶な光景だった。 「・・・・何、これ。」 水道管が大破していた。 ありえない。洗面所の管から水が飛沫を上げて向かいの壁を濡らしている。どこをどうすればこんな自体になるのか皆目見当が付かない。さらに最悪なのが水が止まらない事だ。壁を伝い床が水浸しになっている。呆然と突っ立っている私の後ろからブラックがのんびりした声で「止まんねぇだよ、それ。」と他人事のように言う。どういう神経してんだ、この男。 「大家さんに電話しました?水道局には?」 「俺んとこ電話無いし。」 つーか、スイドウキョクって何? きょとんとした目で私を見る。その目は冗談を言っているようには見えない。 と、言う事はこの状態を私が何とかしないといけないのか? ・・・・・・・マジかよ。 ****** 「えぇ、本当に、はい、すみません・・・・はい、仰るとおりです・・・はい、失礼します。」 電話越しなのに頭を下げる私にブラックは「変わった奴」と呟いた。 誰の為にやってると思ってんだ、クソ野郎。恨みがましく睨み付けると「フクロウに餌やらねぇと。アイツ散歩から帰ったばっかだし」と知らん振りしてリビングに消えていった。ホント死ねばいいのに。 どう転んだら水道管を大破するのか私にはまったくわからないが、この無惨な洗面所の説明をブラックに求めたら「転んだらぶっ壊れた」と言うので、仕方が無いのでそのまんま大家に電話で説明した、私が。勿論怒られましたよ。「そんな言い訳が通用すると思ってるのか!!」とまで言われました、電話した私が。はっきり言ってこっちの方が知るかァァァァ!!!という状態である。私は無実だ。洗面所大破事件に無理やり飛び入り参加させられているだけである。そんな事になったのも目の前で無邪気にフクロウに餌をやっているファッキン野郎・・・・失礼、クソ野郎が原因だ。 「スイドウキョクって何?」発言から数十分後、とりあえず水道管はどうにかなった。いや、直ったわけじゃない。応急処置で水止めの栓を閉め、この部屋の水を止めた後水道局に電話をして明日着てもらうことになったのだ。局員の人も大層驚いていて「え?!どんな転び方されたんですか?!」としきりに聞かれたけど、本人じゃないので曖昧に誤魔化した。本当は本人に代わればいいのだが、この超絶美形さんは頭も超絶らしくこの世の常識をまるで知らない。水道局に連絡を入れる為に携帯電話出すのを見て「何ソレ!コード付いてねェ!!マジで電話なの?!!」とはしゃぎだしたのには引いた。(彼は子供のように携帯を触りたがったので、水道局や大家さんに連絡するのが大変だった)(流石に私が大家さんに平謝りするのを見てはしゃぐのをやめたが、未だにポケットに入れた携帯をチラチラ見ている) 「とりあえず水の栓は閉めておいたんで大丈夫でしょう。」 「ありがとな。」 「・・・水道局知らないでよく水道使えましたね。」 「んー?あぁ、部屋の引越しは全部彼女がやってくれたし。」 「・・・・・へー、ソウ・・・・(使える彼女でよかった)」 無邪気に笑うこの男に呆れてものも言えない。 こういうのはさっさと帰るのが得だ。ハルもしきりに帰りたがっている。 「明日には業者さん来てくれますから。それじゃさようなら。」 「もう帰るのか?」 「えぇ、(アンタを構うほど)暇じゃないので。水も止まってる事だし今日1日彼女の家にでも行ってればいいじゃないですか。喜びますよ。」 そしたらこの迷惑な隣人に振り回されずにすむ。 やっと解放されると思ったら、どっと疲れが出た。今日はもうごろごろしながら過ごそう。本当は天気もいいし買い物にでも行こうと思っていたが、完全に行く気が無くなった。ため息混じりに「じゃぁ」と背を向ける。 「待てよ、」 それからは全てがスローモーションだった。 肩を掴まれて振り向いたら、ブラックの顔がやけに近くにあって、口に何かが触れた。 熱く、湿った吐息。唇の形を縁取るように何かが重なる。 何をされているのかなんて全くわからなかったし、自分がどういう状況にいるのかも把握できなかった。ただ、睫毛長いなとか、彼の後ろにある壁に小さなシミを発見してペンキで塗らないとダメだなとか場違いな事が頭に浮かんだ。ふいに顔が離れる。閉じていた目が開き、灰色の目が淫靡に光った。彼は私の胡桃色の髪にキスを落としてから、かすれた声で囁いたのだ。 「まだいいだろ、なぁ・・・・、」 電流が背中を駆け上がる衝撃と言うのを初めて知った。 産毛が逆立つ。動物が本能で危険を感じとるように頭の中で警戒音が鳴り響く。気が付いたら自然に手が出ていた。平手なんて生易しいものじゃない。こぶしを作って思い切り頬を殴りつけた。予期しなかった自体にブラックは簡単に後ろへ倒れて、信じられない顔で私を見ている。信じられないのはこっちだカス。 「いい気になってんじゃねーぞ、この下半身野郎がァ!そんなにヤりたきゃ支柱にでも擦り付けてナニでもしてろ!!」 女の口からそんな言葉が出るとは思わなかったのだろう。 殴られた時よりも数段驚いた顔をするブラックを置いて私は玄関を出た。 後ろからハルが心配そうに付いてくる。それに気付く余裕も無いくらい私は混乱していた。 こんな簡単にファーストキスを済ませてしまうとは、思ってもみなかった。 |
お悔やみ申し上げる
(私の大切にとっておいたファーストキスよ)