「おいで」と言われて着てみればそこは小さく汚い部屋だった。
第三美術室にある準備室よりも狭いその教室は昔授業でも使われた美術室だったらしい。しかし、増築だなんだと、別の場所に大きな美術室が作られてからは倉庫としてしか使われず、さらに年数がたった今ではここで働く教員にすら忘れ去られてしまった教室なのだとは言っていた。そのせいかこの部屋には虫に食われたシーツに包まれた絵が所狭しと壁に重ねられていて、机と椅子は絵の具と年季でガクガクのボロボロだ。俺はその中でも幾分ましな椅子に乱暴に腰掛ける。


は絵を描いている最中は驚くほど喋らない。
じっとキャンバスを凝視して訳のわからない何かを描いていく。そのときの顔は普段の能天気な顔が嘘の様にキリリとしていて、描く絵はお世辞にも上手いとはいえない程下手くそなのに何故か俺は始終ドキドキしてしまう。これはアレだ。普段メガネをかけない奴がメガネをかけるとそのギャップがクるというのに似ているのかもしれない。(いや、これは以前が日本ではメガネ萌というのがあると言う話で言っていたことだから俺がメガネフェチであるわけでも、メガネで萌えた事があるわけでもない、断じて
まぁそんなわけで今、この部屋には言葉なんてモンはなくてストーブにかけた薬缶の沸騰する音が聞こえるだけだ。(深く突っ込んだことはないが、が持ってきたのかそれとも最初から置いてあったのか、この部屋では今時珍しい石油ストーブが中心の芯を真っ赤にして部屋を暖めている)そして汚ねぇ机には安っぽいマグカップ2つとココアの袋が当たり前のように置いてあった。


鹿の絵が描かれたマグカップ。ここに立ち寄るようになって丁度三回目のときが買ってきたものだ。黒が俺で、赤が。本当は俺が赤でが黒だったらしいが断固拒否した。目の色で選らばねぇだろ・・・普通。
そしてココア。
俺は甘いようで甘くないココアが死ぬほど嫌いだ。あんなに匂いは甘ったるいのに、いざ飲むと地味な味で裏切られた気分になる所も喉にひっかるような後味もすべてが嫌いだ。もしココアが人間だったら殺してる。それ程迄に嫌悪しているココアが何故、この部屋で我が物顔して居座っているかと言えば・・・・・・まぁ、が買ってきたからだ。それもウキウキ顔で。あまりにも輝いていて逆光するほどだったな。そんなに「俺はココアなんて消滅しちまえば良いと思うほど嫌いだ」と突きつけるのはあんまりな気がして、そんな事言うものなら風船のように膨らんだの希望は一瞬で萎んでしまうだろう。しゅんとしたを想像するだけで悪いことをした気になる。実際にそんな姿を見たら俺は数日の間罪悪感まみれになるに違いない。そんなわけで結局俺は憎い茶色の粉が入った袋を睨めつけながらも「そうか・・・」としか言えず、それからと言うもの寝ても覚めても喉に張り付く感覚が抜けず、無意識に唾を飲み込む仕草が多くなった。


でも、そんなモンはただの言い訳に過ぎないのかもしれない。
きっと今、俺がココアが嫌いだったと言ってもは責めはしないだろう。残念がると思うが嫌々飲ませる事はしないだろうし、多分次の日には紅茶なりコーヒーなりを揃えているかもしれない。そうすれば俺も薬缶が沸騰するのを呪ったりはしなくなる。ソレをしないのは、たかが飲み物が合わないだけでのアホ話が聞けなくなるのが嫌だからだ。ココアよりもが今日何をして、どんな事を考えて、何を思ったのかを聞く方が何千倍も俺にとっては大事だ。その話の中でが俺に向けて千ワットの笑顔を向けるチャンスがあるかもしれないのなら、その機会を逃すようなことはしたくない。結局の所俺の全ては惚れた弱みで全部片付けられちまうわけだ。


薬缶が水蒸気を噴き上げてボッボ、カタカタと音を立てる。「いつまで待たせる気だ!」と非難めいた声が聞こえてきそうだ。
壁にかけられた古ぼけた時計はひょろひょろの針を根気強く進めて3時をさしている。はもうすぐパレットを置くのだろう。そしたら甘ったるいだけの匂いがする地獄のお茶会が始まって、俺は相変わらずココアの味に顔を歪めて、はいつものアホ話に能天気な花を咲かせるのだ。




深 海 世 界
(世界は俺を中心に回っているが、俺はを中心に回っている。)
08.7.16