あの後どうやって別れたのか覚えていない。いないが、私は気がついたらホテルの薄汚れた部屋ナンバーを凝視していた。即席で入ったホテルは汚い。この辺ではキレイな分類だけど、日本人的に見れば充分汚い分類に入るホテルだった。客がいるのに電気消すし、平気でゴミを見えるところに出しておくし、そういう雑なところはどう見ても“この街一のキレイなホテル”とは言わないはずなんだけど、クロロはホテルの客室の目の前に置かれたごみを見て「見ろ、百合子のアパートみたいだな」とどこか嬉しそうに言っていたから、この寂れたホテル生活は、なんだかんだで11日目になる。 「ただいま」 いい加減小汚いプレートを見るのも飽きてきてドアを開けると、狭い部屋でクロロがソファで寝転びながらコーヒーを飲み、片手で(よく梱包されたダンボールに入っているだろう)プチプチをプチプチしてドラマを見ていた。・・・方向性がわからない。プチプチしながらドラマを見る意味がわからないし、そもそもプチプチを家から持ってきた意味もわからない。隣人の記憶を消し、半ば夜逃げ状態で家を出てきた私たちは必要最低限のものを持って此処にきた。必要最低限、と言うのは文字通りお金とか通帳とかそういう金銭的なものとか、衣類とかそう言うののはずだ。間違ってもプチプチとか、かたっぽだけの靴下とかマグカップとかチョコボールの銀のエンゼル1枚とかじゃない。(銀のエンゼル1枚とかって応募も出来ねーよ!)やっぱりクロロはどこか頭のネジがぶっ飛んでるのかもしれない。 「おかえり、」 ソファに腰を下ろすと気だるそうにそれだけ言ってクロロはドラマを見る。 テレビの中では今人気急上昇中の女優が泣いていた。もうすぐ彼女は死ぬらしい。そういう設定。「最近多いね、こういう設定。」冷蔵庫から取り出したペットボトルをそのまま飲む。「そういうのがみんな好きなんだろ。」クロロがマグカップでテーブルを軽くコツコツ鳴らした。しかたなく空っぽのマグにミルクティーを注ぐと、「なんだ、午後の紅茶か。」と詰まらなそうに呟く。キリンビレバッジに謝れ。 「話し合いは終わったのか?」 しばらくドラマを見ているとクロロが口を開いた。視線はそのままテレビで、死にそうな主人公を半眼で眺めている。私は一度としてクロロが真剣にドラマを見たところを見たことがない。クイズ番組にはテレビに向かって回答を叫ぶほどアグレッシブなのにドラマとか映画にはあまり興味がないらしい。無表情か半眼か寝ている。 「うん。」 「そうか。」 話はそれだけ。 あとは相手役の男優が主人公を抱きしめながら泣いているのを2人揃ってみていた。 隣でプチプチとビニールを潰す音が聞こえる。時々不発で終わるソレは何だか懐かしくて私は子供のときの事を思い出していた。 ***** 「きっと喜ぶわよ。」 眉を下げながら百合子さんが言った。 1月の冷たい風が私たちの間を通り過ぎ、夕暮れの光で前にはショッカーのような影が伸びていた。その影を踏みつけながら歩く。百合子さんの顔が困っているのが見なくてもわかる。1月24日。クロロがうちに来て初めての誕生日。プレゼントは決めていた。それが何であったか私はもう覚えていないけど、思わぬアクシデントで本当に欲しいものとは別のものになったのだけは覚えている。 「色違いだっていいじゃない。ママはいいと思うけどなぁ。」 本当に欲しかったのは黒。クロロに黒はよく似合った。 だから棚に見栄え良く展示されたソレを見たとき、理想にぴったりだと思った。なのに。次の日百合子さんと買いに行ったら他の誰かに買われた後で、クロロには似合わない色だけが残っていた。プレゼントを持つ手に力が入る。ぐにゃっとした感触に手をどけると、掌の熱さで包装紙がしなしなになっていた。ため息が出る。 きっとクロロは気に入らないだろう。 しなしなになった包装紙も。好みじゃないプレゼントも。いつもみたいに興味のない顔で、「そうか」とだけ言って、1回くらいは使うかもしれないけど、その後は戸棚の奥に仕舞われるに違いない。百合子さんは喜んでくれるというけれど、いつも無関心なクロロが何かを喜ぶとは到底思えなかった。そして現にクロロはいつも通りの顔で特に喜んだ様子もなく24日を平然と過ごし、次の日には昨日何があったかすら忘れているようであった。クロロにとって24日は24日で、それ以上でも以下でもない。誕生日は自分がこの世に生まれた、ただそれだけの日常で。おめでたくもなんともない。 他人にも自分にも興味がないクロロ。生きてても死んでてもどっちでもいいんだって前に言っていた。どちらも変わらないって。クロロは誰の事も嫌いじゃなかったけど、誰の事も好きでもなかった。百合子さんと体を繋いでも夫婦じゃなかったし、私と暮らしても家族じゃなかった。私たちはみんなバラバラだった。 あのプレゼントはどこにあるのだろう。 クロロに1回も使われることもなく、私にすら忘れられたプレゼント。可哀相な、あの、 ****** 「起きたか。」 天井を背中に背負ったクロロが私を見る。そこはあの寒々しい外ではなかった。 風も吹かないし、百合子さんもいない。夢を見ていたのだろうか。それとも思い出した後にそのまま寝てしまったのだろうか。「お前がソファで居眠りするから運ぶのが面倒だった」クロロが眉を大げさに寄せ、恩着せがましい言い方をする。そこで私は初めて自分がベッドに寝ていることを知った。言われてみれば感触が硬いソファじゃない。ふかふかだ。「ありがとう」笑いながら一先ず礼を言って、時計を探す。薄いカーテンから光は漏れていないからまだ朝ではないようだが、それなりの時間を寝た気もしていた。「5時を少し回ったところだな。」クロロが携帯の画面を開いて確認する。というか、それ 「私のじゃん。」 クロロが持っていたのはピンクのボディにコリラックマのぬいぐるみストラップ。 完全に私のだ。デザインこそ同じだがクロロの携帯は黒にリラックマのぬいぐるみストラップだから間違いようがない。(余談だがこのストラップはある日突然クロロが持ってきたものだ。渡す際クロロは苦虫を噛み潰したような顔で「ゲームセンターと言う所はぼったくりの店だな」と言っていたからかなりぼったくられたのだろう)手を伸ばせば案外簡単に携帯を渡された。普段なら大人気ない事の1つや2つやるのに。いつになく素直なクロロに笑う。薄暗い室内でクロロはじっと私を見ている。「何?」見返せば「そんな顔するな」と言われた。 「そんな泣くように笑うな。」 「・・・・・。」 「俺はそんな顔好きじゃない。」 「ごめん」笑って謝ると「謝って欲しいわけじゃない。」とクロロが言う。 淡々とした声。黒い目は温度がなくて何を考えているかわからない。いつも通りのクロロ。「うん、ごめんね」目に力を入れて笑う。そうしないと目から水が溢れそうだった。「謝るな。」さっきよりも強い言い方。うん、わかってる。でもごめん。ごめんなさい。私はずっとずっとクロロに謝りたかった。 私が違う世界からクロロを連れて来なければ、クロロはもっと違う人生があった。 それがどんな人生か私はわからないけれど、でも15歳だった。クロロはまだ沢山の可能性を秘めた15歳で、まだ沢山の選択肢から未来を選べる年齢だった。1つの未来に縛り付けていいはずがなかった。だから、ごめん。遅いのはわかってる。今更と言われても仕方がない。 「長い間縛り付けてごめんなさい。」 私が消えればその“力”も効力を失うはずだ。“力”で消えた人の周囲は、消えた当人がいなかった世界として書き換えられる。だからもし私が消えれば、“私が存在していなかった世界”に書き換えられるはずだ。そしたら。そしたら私が消してしまった人がこの世界に戻ってくるかもしれないし、未だ私の“力”でこの世界に縛り付けられているクロロは元の世界に帰れるかもしれない。その可能性に私は賭けたい。20年。それはクロロにとってどれほど長い時間だったのだろう。4歳の子供が成人して、大人の女性となるくらいの歳月は相当の時間だったに違いない。 不意に頭を引き寄せられた。 ぐいっと少し乱暴にクロロの掌が私の頬を包む。「黙れ。」クロロは珍しく怒っていた。低い声でそう呟いてからは無言で私を睨みつける。私も彼の初めての怒りに思わず口を噤んで彼を見つめた。普段不機嫌な顔や冷たい顔をする事はあるもののクロロが怒った所は見たことがなかった。体が硬直する私をクロロはしばらく見つめ、それから息を吐く。そして「百合子が、」と静かな声で呟いた。 「百合子が言っていた。百合子にとって旦那は死んだ夫だけだ、と。」 突然出てきた百合子さんの名前に私が目をきょとんとさせているとクロロは苦虫を噛み潰したような顔で目を伏せる。そしてでも、と区切って、今度は言いにくそうに口を開いた。その顔が嫌々と言うよりも照れ隠しにように見えたのは私の見間違いだろうか。 「でもお前の父親は俺だけだ、・・・・・そう言っていた。」 嗚呼やばい。「俺は、」涙が零れ落ちそうだ。「家族と言うのがよくわからない。」そんなの私だって知らないよ。「俺の育った所ではそういう組織はなかったから。でも何故だろうな。」頬が暖かい。閉じそうになる目をぐっと堪える。今瞬きをしたら涙があふれ出てくるに違いない。なのに、 「俺はその時悪くないと思ったんだ。」 クロロが笑った。 「お前が成長していくのを見ているのも悪くない、そう思ったんだ。」 その笑みがいつもの馬鹿にした笑みとかじゃなくて、ソレはまるで百合子さんが私を抱きしめたときに浮かべる笑みに似ていたから、散々我慢していた涙は不覚にも瞬きをするよりも前にあっけなく頬を滑った。お前はかわいい。次々流れる涙を拭いながらクロロが小さく呟く。「顔は普通だが愛嬌がある。」それって褒めていないよ。まったくクロロらしい。笑いが込み上げてくる。でもいざ笑おうとすると喉が張り付いて上手く笑えなかった。嗚咽のようにヒクヒクと喉が鳴る。目から零れる水が熱かった。 「お前は長いと言うが、20年なんてあっという間だ。短すぎるくらいさ。――なぁ、。お前はもっと素直になるべきだ。楽しければ楽しめばいいし、生きたいなら生きればいい。お前は幸せになっていいんだ。」 ほんとうに? いいの?幸せになっていいの? クロロが屈託なく笑う。 「ああ。俺のかわいい娘が幸せになれない道理なんてこの世にはないからな。」 例え私の存在が消えたとしても私はきっとこの笑顔を忘れない。この言葉を忘れない。私たち3人は確かにバラバラで、クロロも百合子さんも私よりも自分のやりたい事優先してばかりだったけど、でも私たちは【家族】だった。出来の悪い家族ごっこみたいな、でも確かに家族だったんだ。そのことを私はきっと忘れない。 |
苦 い 夢
(不意に思い出す。そうだ、私が贈ったのはマグカップだった。さっきクロロが使っていたようなピンク色の、マグカップ。)
「なぁ、」私を抱きしめながらクロロがそっと呟いた。 「賭けをしないか」 |