彼女が気付いて欲しいとき、彼は別を見ている。
彼が手を差し伸べるとき、彼女は知らない振りをする。















シーソーゲーム














の奴、何がそんなに嫌だったのかな。」


疲れきった時人の問いに遊庵もやはり疲れた声で“さぁな”と答えた。
現在部屋の中には遊庵と時人、それからひしぎ以外誰も居ない。
吹雪はが去ったあと溜め息をついて部屋を出て行った。
さっきまで緊迫した空気が漂っていただけあって疲労がどっと押し寄せてくる。


「つーか、アイツがマジで怒ったの初めて見たぜぇ?」
「僕だって同じだよ。が切れるなんて初めてなんじゃないの?」
「どうなんだよ、ひしぎ。」


話を振られたひしぎは無表情のまま“今のが初めてだと思いますよ”と抑揚なく言った。
“だよなぁ。”と相槌を打ちながらも遊庵は溜め息をつく。
いつも笑っている印象しか思い出せないくらい彼女は負の感情を表に出さない。
だからと言って影を背負っているわけでも、
己を偽っているわけでもない。(と思う。)
ただ、育った環境の所為か負を表現するのが苦手なようだ。



「それにしてもはもう少し吹雪さんを頼っても良いんじゃないの?」


呆れ顔で遊庵に目を向ければ彼はニヤニヤ笑って


「甘いな、時人。ソレが出来れば苦労しねーの。」


と時人の頭をぐしゃぐしゃ混ぜる。


「ちょっとやめろよ!って言うか、ソレどういう意味?」


嫌そうに遊庵の手から逃れる時人。
そして瞬時に怪訝な顔をする彼を遊庵は口が滑ったと苦い顔をした。


「今の無しな。忘れろ。」
「そこまで言っといてソレは無いんじゃないの?」
「いいじゃねーか、別に大した事じゃねーんだからよぉ。」
「だったら僕が聞いても良いでしょ。“大した事”ないんだから。」


構わず詰め寄る時人に遊庵はひしぎに救いを求めた。
が、求められた本人は知らん顔でいる。
とうとう諦めた遊庵が溜め息混じりに口を開く。
彼にしては珍しく小さな声だった。


の奴、吹雪にトラウマ持ってんだよ。」


「トラウマ?が?吹雪さんに?」


信じられない、と言った顔で時人は遊庵を見つめた。
いつも笑った顔で話をしているが、トラウマ?
驚いて、眉を顰めて訊いていくと遊庵は更に苦い顔で口を噤んだ。


「だってそんな素振り」
「あぁ、見せた事ねーよ。」
「だったらなんで」





「遊庵。」




ひしぎの制すような声。
遊庵は“はいはい”と手を挙げた。


「この話は終わりだ。そろそろ仕事しよーぜ。」


吹雪の分もやらなきゃならねーんだからよー、と腰を上げる遊庵に
納得がいかないと睨み付ける瞳は二つ。


「トラウマってどう言う事だよ。」
「終わりだ、終わり。」
「何でが吹雪さんにトラウマなんて持ってるの?」



「これ以上は私も遊庵も言えません。」


時人の瞳がひしぎに移る。
眉を寄せて汚れ物でも見るかのようだ。


「なにそれ。」
「これはと吹雪の問題です。貴方が首を突っ込むような事ではありません。」
「突っ込むだって?僕は真実が知りたいだけだよ。お前にとやかく言われる筋合いはないね。」
「・・・知らなくていい真実もあるでしょう。」
「それが今だって言うのかい?」


冷静ぶった口調だが、間違いなく侮蔑と嘲りを含んでいた。
ひしぎは特に咎める事もせず瞳を閉じた。


「とにかく取るに足らない好奇心だけで傷を抉るのはやめなさい。が傷付く。」


珍しく感情の入った声音。
途端に時人の目の色が変わる。




「っ!お前には関係ないだろ!!」


顔を真っ赤にして怒鳴って時人は乱暴に部屋を出て行った。
長い廊下を歩いている間も怒りが治まる事はなかった。





何だあいつ等、人を馬鹿にしやがって。
僕だけのけ者にして。
話す対象にもならないほどの人間だって言いたいのか、この僕が!


が傷付く。』


そう言ったときのひしぎは悲しそうな顔をしていた。
もうこれ以上傷つけるなとでも言いたげな。


「・・・そんなの判ってるよ!」


そんなのわかってる。
自分が彼女と彼の問題を知ったところで何も出来ないことも
知ることによって彼女を傷つける可能性があることも
今、とても傷付いている事も。
わかってる。
わかってるからこそ二人が、悲しそうな顔をしたひしぎが憎くてしょうがない。
全て知ってますって顔が、許せなかった。


「畜生っ・・・・・・。」


爪が当たるくらい強く拳を握る。
下唇を噛み締めると仄かに鉄の味がした。














時人の出て行った襖を見つめて遊庵は大きく溜め息をついた。
それは盛大な溜め息で、誰かさんを責めているようだ。


「どーすんだよ、今日の仕事。」
一日仕事をしなくても何とかなりますよ。
「・・・・お前の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったぜ・・。」


しれっと答えるひしぎに遊庵はまた一つ、溜め息をついた。




「なぁ、」


しばらくぼぉっと外を眺めていた遊庵が声を掛けるとひしぎは目だけ彼に向けた。


「一体どうしたいんだろーな。」
ですか?」
「ああ。」


ひしぎは少し考えてからいつもの顔で


「さぁ。」


と言って目を閉じた。
期待していた遊庵としては二文字で返答されていささか不満そうな顔をしている。


の事なら何でも知ってんだろ。」
「何でもではありませんよ。知らない事だってまだあります。」
「それでも俺や吹雪よりは知ってるだろーが。」
「まぁ、否定はしませんね。
「・・・・・。」


自分で振っといてアレだが何となくムカツクな、とか思った遊庵だったが、
事実は事実なのではっきりと非難できない。
言い知れない感情が遊庵を襲う。


「吹雪もアレ以上強くは言えねーし、は気付かねーし。
ってか、今回のでかなり落ち込んでんじゃねーの?吹雪の奴。」


吹雪にもに対する負い目があった。
が太四老を主人とする案内人になるまで吹雪は彼女の事を見向きもしなかったらしい。
別にはそれを責めなかったし憎みもしなかった。
しかし、日に日にそれは負い目となり、罪悪感となり彼を悩ませた。




は貴方や吹雪が思っているより賢い子ですよ。」
「・・・何だそりゃ。」
「吹雪が近づこうとしている事も手を差し伸べている事もちゃんと知ってます。」
「その割に進歩が無い気がすんだけど。」


吹雪は吹雪なりにあの手この手を使って近づこうとしているのは自分やひしぎも知っている。
しかし、その度には気づかずに通り過ぎていくのだ。
何事も無かったように笑っていつものように接していく。


「知ってて尚、は知らないフリをするんです。あの子は吹雪に対して酷く臆病ですから。」


ひしぎは開いた瞳をまた閉じる。


「『仮に彼が自分を家に迎え入れたとして彼は自分を愛してくれるのだろうか』」
「・・・・・・・・。」
「『負い目や罪悪でなら自分はいつの日か邪魔になる』」


遊庵は口を噤んだままだったが眉を寄せておずおずと言った。



「・・・・負い目とか罪悪とか、」


声は決して大きいものではなかった。
しかしはっきりした声だった。


「そんなモンだけで迎え入れようとしたわけじゃねーだろ。吹雪は。」


もっと違う感情があったから。
そうでなければ無慈悲で冷徹な彼が頭を悩ますなど無い。
一度を切り捨てたようにまた切り捨てればいいし、存在を消す事だって吹雪には出来る。
それをしないのはもっと違う何かがあるわけで・・・・


「不器用な奴だな。」


ぼそりと遊庵が言った。
臆病になり過ぎてそれすら考えられない彼女。
傷は自分が思ったより深かった。



「ソレは吹雪も同じでしょう。」


溜め息と共に吐き出されたその言葉に遊庵は笑う。



「まったくだ。」








(態度ではなく言葉が欲しいのに彼は気付かない)