暑い暑い夏の日だった。八月も半ばで沖田が土方に内緒でかき氷を食っている。風鈴がチリンと鳴った。今日はも近藤もいない。土方はいるが部屋に篭って仕事だ。山崎は玄関で打ち水を撒いていた。水が土を濡らす。梅雨時期の土の匂いが漂った。「ごめん下さいまし」誰かが呼ぶ。振り向けば若い女が立っていた。紅いべべが背景と不似合いに歪んでいる。


「土方はんはいんすかぇ?」
「今は仕事でいません」
「いつ頃帰ってきんすか?」
「今週のうちには」


 山崎がそう言うと女は わかりんした。失礼しんす。 と下駄を鳴らして消えていった。山崎は気にせず打ち水を撒く。不気味な女だとは思わない。彼女は生き霊だから。
 どう言うわけか山崎はソレの類をよく見る。物心が着く前からだ。だから恐ろしいとか怖いとかは思わなかった。(不快ではあったが。)ただ今のような生き霊は少し厄介だ。さっきの女は島原の遊女だろう。あとでそれとなく訪れるよう副長に言わなければと山崎が考えていると、また「すみません」と呼ぶ声が聞こえた。
 今度は若い男だ。若いと言ってもと同じくらいの年齢で髪をきっちりと結い上げている。袴に腰には白い刀。の刀によく似ていた。「何か御用でしょうか」山崎がそう問うと男は深々と頭を下げる。随分と頭の低い人だ。山崎も頭を下げた。礼儀作法は土方に習っている。


を知っていますか?」
「えぇ、存じております。さんは真選組では随一の剣の使い手です。」


 答えると男は複雑そうな嬉しそうな感情を顔に刻み込んだ。辺りは水を打ったように静寂が響いている。蝉の鳴き声もしない。「伝言を言付かっては下さいませんか。」男が口を開いた。黒い瞳は何処までも澄んでこの世のものではない。今まで見た中で一番澄んだ目をしている。山崎は頷いた。男は安堵の息を漏らした。


「僕の事は気にするな。君は自分の好きな道を進んでくれ。」


 そうお伝え下さい。また男が深々と頭を下げる。今度は山崎は下げない。目を見開いて固まったままだ。「それではもうおいとま致しますね。」男は穏やかに微笑んで消えていった。ジリジリと蝉が鳴き出した。ムッとした土の匂い。後には山崎一人が残される。


 それから三年の歳月が流れるが男の言付けを山崎はに話してはいない。もし彼が男の言葉をに伝えたとして彼女はバカにしたりは絶対しないだろう。山崎がソレの類を見るのを知っているし、理解もしてくれている。しかし彼は口にしなかった。その言葉を伝えて彼女が真選組を去ってしまうのではないかと危惧したのだ。男の言葉はすなわち解放である。山崎はそれが怖かった。だから忘れる事にした。忘れてしまえば伝えなくていい。彼女は此処を去らない。幸い山崎は“忘れる事”が得意だ。その日の夜にはもう忘れていた。


男の言葉を知るものは誰もいない。

忘 れ た こ と