の泡となって本当に消えたのは 人魚姫の心だった。
恋しい、恋しいと涙する心そのものだった。








人魚








嫌だったか?と訊かれた。隣には近藤さん。自分と同じように座って自分と同じように海を見つめている。私は曖昧に笑って わからないとだけ言った。潮の匂いが鼻をくすぐる。穏やかに吹く風が普段つけない簪と煌びやかな着物を揺らした。


「すっぽかした事、怒ってますか?」
「いや、元々お前の意見も聞かねーで進めたとっつぁんがいけないんだ。」


それにこんなショボイ奴にお前は勿体ない。近藤さんは屈託なく笑って見合い写真を放り投げる。顔も思い出せない男の写真が貼られたソレは放物線を描いて暗い海に沈んでいってもう見えない。いいんですか、と訊ねればいいんだ、とやけにしっかりした声で近藤さんは答える。後でどやされるだろうに。それでも部下のやりたいようにやらせてくれる彼が自分はたまらなく好きだった。土方も総悟も退も同じだろう。みんな近藤さんに憧れという恋をしているのだ。
お前は、ぽつりと近藤さんが言う。


「忘れられないのか?」


また曖昧に笑った。そしてさっきと同じ言葉を吐く。わかりません。
そうか、と近藤さんは呟く。しばらく二人で海だけを見ていた。波が押し寄せては引いていく。
忘れ、られないんでしょうか。我ながら何て質問しているんだと思うが出てきてしまったものは仕様がない。近藤さんは黙って聞いていた。






私を初めて抱いた人は 私の為なら死ねると言い、私の生まれた村の海を好きだと何度も言った。
生まれてきてありがとう。彼は優しく笑ってキスをする。私は笑って 少しだけ泣いて、波寄せる海で静かに髪を解いた。









「あの日海に置いて来たはずなのになぁ。」


村を出るとき彼の写真も着物も刀意外全部焼いた。彼の意思だけを貫く為に彼の全てを忘れると決めたのだ。実際、今彼を思い出そうとしてもどんな顔だったか出てこない。いつも穏やかに笑っていたのだけ、おぼろげに覚えている。どんな声だったか。どんな顔だったか。まるで曇りガラス越しに見ているようにはっきりとしない。なのに、


「気付けばこうして海を見ているんです。」


今私はきっと世界で一番情けない顔をしているだろう。近藤さんが口を開く。しかしすぐ閉じた。変わりに髪をぐしゃぐしゃと撫でられ、整えた髪が乱れる。言葉はない。それで充分だった。言葉がなくても近藤さんの気持ちはその大きな掌に込められているから。静かに目を閉じる。波の音だけがゆるやかに鼓膜を刺激した。


もう彼の顔は忘れた。どんな声で自分に囁いたのかも・・・忘れたはずだった。
しかし体は海を欲している。恋しい、恋しいと泣いている。
あの日 彼を愛した心はこの広い海のどこかに置いて来てしまったと言うのに


しい、恋しい と騒ぐのだ。