「跳ね馬」
「んぁ?」


突然呼ばれた声にディーノは振り向いた。
平和な並盛町のある住宅街。しかしもう夕日が最後の光を放っている路地裏には人はまばらにしかいなかった。買物帰りの中年の女性。家へと走る子供たち。その中でじっとこちらを見る少女がいた。


「跳ね馬ディーノ、」


細い声でもう一度呟く。その声が似合うほど彼女の身体も細い。シンプルなワンピースからでもわかる腰もブラックジーンズに包まれた足も。どこもかしこも細い印象を与えるその少女は億劫そうな、けれど芯の強い黒い瞳でディーノを見ている。


「誰だ?」
「取引をしに来た」


ディーノの質問には答えず彼女はそっと視線を落とす。彼女の長い前髪が風に揺らめいた。取引と聞いてディーノは目を鋭くさせる。マフィアのボスの顔だ。此処にはディーノと少女しか居ない。部下は夜に向けて先に帰らせていた。腰にある鞭へ手を伸ばす。


「今夜の、」


が、たどたどしい彼女の物言いに思わず手が止った。見れば彼女の黒のロングカーディガンから覗く手首が震えている。恐いのだろうか。自分は男で、相手は女だ。それも細くて今にも倒れそうな儚さ。幼いといってもいい。唇の動きも風で時々見える表情も少女をよりいっそう頼りなさ下に見せる。(実際はいつもの発作だ)(しかし、ディーノが彼女の事を知らないように彼女の病気もディーノは知らない)


「今夜の試合は山本武が勝つよ。」
「・・・そう俺は願ってるがな、」
「勝つよ。」


俯いていた顔が上がる。ディーノは目を見開いた。目だ。黒い瞳。自信に溢れた、否。当たり前の事実を告げる様な、強い色。


「スペルビ・スクアーロは己の驕りで負ける。彼の事を鋭い歯が狙っているよ。仲間は助けない。あなたは助ける。大丈夫、彼が死ぬことはないから。」
「・・・・あんた何者なんだ?」
「私は私。あの人を追う者。跳ね馬、もしこの未来が当たったら私の願いを聞き得れて欲しい。」
「願い?」
「明日の夜、霧の守護者の試合に私も連れてって。終わってからでいいの。」


カーディガンが風に重く揺れる。相変わらず黒耀の瞳はディーノを射抜いている。秋風が二人を通り過ぎた。木の葉が舞い踊りディーノは目を瞑る。


「約束だ、よ 跳ね馬。」


澄んだ声が聞こえる。風が止んで目を開くと其処にはディーノしか 居なかった。少女の姿は何処にもない。

そ し て 誰 も 居 な く な っ た