沈んでいく 沈んでいく ソコは海の底に似ていた。吐いた息がごぼごぼと不明瞭な音を出して、空気の玉は上へ上へと浮いていく。水面では太陽の光が一面に広がっていて目を閉じたままのの瞼を優しく刺激した。 目の前を大きな鯨が悠然と泳いでいった。は一度も鯨を見たことが無いがソレが鯨であることは何故かわかっている。虹色に輝く皮膚が光を受けて眩しく光った。は目を閉じている。そして息をしている。服は濡れていない。ただ浮遊感を感じていた。これは夢だ。 深く深くに沈んでいく夢。は瞼に広がる海の夢を海に浮かんだ夢の中で見ていた。魚の群れが輪を描いて泳いでいく。ひどく気持ちが良かった。さっきの鯨はよりも深い海へと消えていくらしい。 何処に行きたいんだろう。何処へ向うんだろう。何処まで行くんだろう。追いかけてみようか。連れて行ってくれないだろうか。自分も一緒に。 目を開いてみる。瞼に広がっていた海がそこにあった。鯨はじっとを見ている。紫色の瞳をしていた。優しい眼差しだ。ここは心地が良い。ここにずっといたいと思った。 「いかんぜよ。」 落ち着いた声が聞こえた。 「一緒には行かれん。アレとはここでバイバイじゃきに。」 いつの間にかの隣には見知らぬ男がいての手を優しく掴んでいる。よりもずっと背が高かった。リドルよりも高い。見たことも無い服を着てサングラスをかけている。男はの視線に気付くとにっこりと笑った。サングラス越しに見える男の瞳はあの鯨と同じように優しい。 「アレに付いてっちゃいかんぜよ。」 の頭を撫でながら男は言った。どうして、と問うより先に男は口を開く。 「アレはシーラカンスっちゅーて過去を進む生き物きに。」 まるでの心の中がわかるかのような言い草だ。男は紫色の目をした虹色の鯨を眺めている。 「見かけは潮吹く魚で本に載っちゅう絵とは違うき、みんな知らんがアレがシーラカンスじゃ。ずっとずっと深うてずっとずっと遠い過去を旅して生きる生き物ちや。」 男に真似てそのシーラカンスを眺めるとシラーカンスもを見ていた。水面の光が影のように紫色の瞳にチラチラ映る。 「過去は甘い。未来は辛い。」 男が呟く。を戒めるのではなく自分の心に言い聞かせているようだった。虹色の鱗に他の魚が戯れる。シーラカンスは目を閉じて好きにさせていた。男の手の力が又少し強まる。さっきからこの男は不思議な事ばかり言う。だけど彼がの言いたいことがわかるようににも男の言いたいことがわかった。 「それでも前に進まんといかんのじゃ。人間は前に進むことしか出来んきに。」 この人は何か大切だと思ったものを失くしてきたんだと思う。無意識のうちでだったのかそれとも故意によるものだったのかには知る術はない。だから男と同じようにただシーラカンスを眺めていた。ソレしか出来ない。 やがてシーラカンスはゆっくりと目を開き、さらに濃い藍色の深海へと消えていった。 あの紫色の瞳はどのくらい過去を見てきたのだろう。ずっとずっと先の未来から人間とは逆に進む魚。だからひどく懐かしく惹かれるのだ。 人間が進むべき未来を渡って後ろ髪引かれる過去へと進むのだから。 |
藤 色 の 目 を し た 鯨